年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 [自宅周辺の自然・環境など]
よく散歩したこの里山ですが、2015年と2021年を比べてみました。
BGMは「浜辺の歌」ですが、「浜辺」を「山辺」に置き換えてください。
早いもので今年の6月に七回忌を迎えます。
皆様、お体には十分お気を付けください。
カブキカタログ vol2 歌舞伎ジャーナル第105号 [歌舞伎ジャーナル]
歌舞伎ジャーナル第55号(平成18年5月21日)以降の追加事項(順不同)
①
平成22年8月歌舞伎症候群の責任遺伝子が同定されたことにより、平成23年1月24日遺伝子検査を実施
遺伝子検査結果:c.15256 C>T,p.Arg5086STOP
この結果の意味するところ
MLL2遺伝子の15256のところが、本来であれば塩基の並びが C(シトシン)が来るべきところ、突然変異によりT(チミン)が来た。結果として「アルギニン」というアミノ酸が生成されるところ、「アルギニン」が生成されず、なおかつ、これに続くアミノ酸の生成がストップされる。
②
歯科に関する事柄
平成21年9月撮影の歯のレントゲン写真・・・右の上部犬歯の欠歯を確認 黄色の③がない。
このためかどうかは分りませんが、常に「ヨダレ」が出ています。
③
平成20年7月脳波の検査を実施・・・「部分てんかん」が判明
④
平成21年9月視力検査を実施・・・視力がかなり悪いことが判明。メガネを作成するも本人邪魔になるので使用せず。
検査結果は↓
⑤ 身長と体重の成長の記録
身長は「-2.5SD」に該当し、「低身長」になる。無作為に100人身長順に並んだとき、前から1番目か2番目の位置。
最新のBMI⇒ 25.429116338207247 となります。
⑥医療に関する各種ビデオ (順不同)
ⅰ 平成20年5月 歯科検診 初診 11歳
ⅱ 平成20年6月 コルセット装着(脊椎側弯症の治療目的) 11歳
ⅲ 平成20年8月 小児神経科 初診 12歳
ⅳ 平成21年11月 歯科治療とレントゲン撮影 13歳
ⅴ 平成20年7月 脳波の測定 11歳
ⅵ 平成25年10月 耳の肉芽の治療 17歳
ⅶ 平成19年3月 柔らかい体 10歳
カブキカタログ vol1 歌舞伎ジャーナル第105号 [歌舞伎ジャーナル]
ぶろぐ考古楽(テーマ:歌舞伎ジャーナル)
2020年5月10日 歌舞伎ジャーナル第110号学習能力の限界を知る大切さ
2020年2月23日 歌舞伎ジャーナル第109号2月は歌舞伎症候群の啓発月間です
2015年12月31日歌舞伎ジャーナル第108号特別支援学校高等部3年間をふりかえって
2015年7月26日 歌舞伎ジャーナル第107号特別支援学校高等部3年間をふりかえって
2016年7月26日 歌舞伎ジャーナル第106号歌舞伎症候群とⅠ型糖尿病
2015年6月25日 歌舞伎ジャーナル第106号わが子の入院前から永眠までの経過
わが子の入院前から永眠までの経過(ごく一部) 歌舞伎ジャーナル第106号 [歌舞伎ジャーナル]
<概要>
18歳 女 療育手帳;A判定 障害支援区分:4
3月に特別支援学校高等部を卒業。
4月から生活介護事業所へ通所し、ゴムのバリ取りなどの生産活動に従事。
専門病院における受診科目および病名
内科(遺伝科):歌舞伎症候群 児童神経科:部分てんかん 整形外科:脊柱側弯症 眼科:近視
耳鼻科:難聴、アレルギー 歯科:定期健診 虫歯は1本もありませんでした 婦人科:無月経
定期的な「空腹時血糖値」の測定はしてこなかった。
<経過>
04/30 この頃から大量の水をほしがる。毎晩の夜尿症が始まる。
05/01 この頃からオムツの使用量が増える。
05/05 咳が出始める。風邪の症状。水分を常に求めるようになる。
05/07 かかりつけの耳鼻科を受診。薬を処方される。
05/08 症状の改善が見られない。
05/09 ブログ パソコンの最中も横になるようになった。夜、少し苦しそうであった。
05/10 覇気がなくなる。ブログ。夜、眠るのに苦しく、熟睡できず。
05/11未明 苦しくて眠れないようで、救急救命センターへ連れて行く。
・自力では歩けない。センターでは記憶をなくしていた。
・検査の結果、医師は『糖尿病』または『血糖値異常』の病歴の質問を受ける。
・『糖尿病』または『血糖値異常』の履歴はない」と答える。
・07時頃、集中治療室へ搬送。
・09時、集中治療室から電話。直ちに来所されたいとのこと。
・医師からの当面の目標説明
◎肺炎治療を優先し、その後糖尿病治療する。
・17:30頃の状況
◎血糖値 500以上 MAXは600以上
◎肺炎を併発。レントゲンを比較すると救急救命センター到着時と集中治療室時では大きな差があった。
◎病院到着後約4時間で肺が真っ白になった。
◎自己呼吸ができないため、医師がふいご状の物を使い呼吸の補助。その後人工呼吸。
◎意識障害
05/12 人工呼吸器が外れる。自己呼吸となる。注射針、酸素マスク等外すので身体拘束を依頼した。
05/13 主治医より「Ⅰ型糖尿病」と診断される。
05/14 主治医より、痰を分析したところ、肺炎の原因が2種類の雑菌であることが分った。
1つは真珠腫性中耳炎と同じ菌。もう1つは不明。
05/15 集中治療室から一般病棟(糖尿病の病棟)へ移動。肺炎がかなり改善したため。
05/16 自分の手・足を使って2回ほど栄養チューブを外したとのこと。
05/17 引き続き栄養チューブと酸素吸入。
05/18 家族がいることは判断でき、声が聞こえると暴れる。
05/20 栄養チューブ不要となる。酸素吸入は継続。ウォーターゼリーを飲む。薬を混ぜて飲ませる。
05/21 昼・夕食はおかゆが出る。
夜はカレーライス、プリン・フルーツ、アイス。1時間掛けて食べさせる。
家路につくおり、「お父ちゃん、仕事? バイバイ」と言いながら一生懸命手を振ってくれました。
(これが最後の「ことば」になりました・・・含蓄に富んだ言葉で、一生忘れません。 無念)
05/22 午後一般病棟から集中治療室へ。意識もあり、少し話をした。
05/23 主治医の説明『別の菌により肺炎』。肺炎は最初のときより少し重い。
意識あり。夜の説明で、動くので麻薬成分を入れる。気管挿管。
改めて、歌舞伎症候群と易感染症の説明。思い当たるところが数々。米国調査結果64%
05/24 朝、様態は変わらず。
夕方主治医の説明「貧血気味」のため輸血をしている。様態は横ばい。
05/25 夕方医師の説明「肺にたまった水を薬を使って尿として排出している。これは上手くいっている。
ただし、肺には新しい水がたまっている。この治療を続ける」
看護師により薬7種(カリウム、てんかん2種、抗精神剤、抗生剤ほか)
05/26 夕方主治医の説明「レントゲンの結果肺炎の状況は変わらず。尿はたくさん出ている。この治療を継続」
父からの言葉掛けに敏感に反応し、動く。動くことは器具がずれる可能性があり良くない。
血糖値は191。計画的に血糖値を高く維持しているとのこと。
05/27 看護師からの今日の変更点を聞き取る
・ヘモグロビンが不足しているため輸血を実施中。
・今まで人工呼吸器をフルパワーで働かせていたが少し絞った。
05/28 16:50頃病院看護主任より電話
病院の都合でICU内で移動。病状とは無関係。
直ちに病院へ行き確認。
人工呼吸器のパワーはかなり下げてあった。
主治医からの説明を明日17:00に行いたい。
お尻かぶれが激しいので、オムツを通気性の高いものに変えてほしい。
父はわが子の手を握って少し寝てしまった。
05/29 主治医より説明
レントゲンを見せながら肺炎は少し良くなった。現在人工呼吸器の酸素濃度70%。
ただし、気管挿管は2週間が限界。その後は気管切開し、酸素を供給する。
月曜日に耳鼻科の医師と切開手術について打ち合わせする。
05/30 人工呼吸器の酸素濃度は70%のまま。昨日と比べ自己呼吸の頻度が増したような気がする。
タオル、石鹸の要望があった。
眠らされていはいるが、父・母の気配を感じ、交互に寝返りを打つ。
05/31 人工呼吸器の酸素濃度80%。自己呼吸の割合は増えたと思う。
一つ一つの呼吸は大きく、モニターの酸素量はmax96を示す。下痢はかなり改善した。
ハンカチに梓の匂いをたくさんつけ、自宅で飼い犬に嗅がせたが反応はあまり無かった。
06/01 今日は3回訪問。人工呼吸器の酸素濃度60%。
昼は真珠腫性中耳炎の担当医(14年間付き合い)から気管切開手術の意義の説明を受ける。この医師から説明を受けたことは良かった。
夜は執刀医より明日午後3時以降に執刀すること。手術の内容、伴う危険の説明を受ける。
執刀医は父の耳下腺腫瘍の摘出手術を執刀。
06/02 今日は「気管切開手術」
16:42手術室へ入る。
17:25医師数名があわただしく手術室へ入る。
17:35頃主治医が説明「呼吸が止まった。心臓マッサージをしている。心肺蘇生器を使うことがあるかもしれない」
18:37急性呼吸窮迫症候群により他界。
執刀医の説明「挿入は成功したが、酸素を送っても反応しない」主治医の説明「肺炎が重篤な状態であった」
父の質問「本当にこの手術をして良かったのか」 主治医の説明「回復状態に応じ慎重に計画だてて行った。本人にはベストな治療」
解剖をしたい旨の申し出があったが、早く家へ帰りたいこと、これ以上切り刻まれることは耐えられない為、CTのみとし、解剖は断る。
後日、気持ちの整理がついたら主治医をたずね、話を聞くことを約束する。
主治医は検証委員会を病院内で実施する旨家族に伝える。
一般病棟での様子 遺影はこのページの写真を使用
東日本大震災から10年 [その他]
ブログ考古楽(テーマ:東日本大震災)
2011年3月22日 10日経っても被災地家族の安否確認が取れない
2011年3月31日 初めて1家族と連絡がつきました
2011年4月 1日 上記について海外からも感動の便りがとどく
2011年4月11日 震災で修学旅行の日程および目的地が変更
2014年3月 5日 もうすぐ震災から3年が経過します
2015年3月 8日 間もなく4年,2011年4月21日の茨城県高萩市の記録。『震度6強』
2017年3月 5日 東日本大震災から6年が経過します。
震災直後の日本では誤報ばかりが目立っており、アメリカのグループや国際赤十字からの情報に頼っていました。
内容は悲観的なことばかり。かと言ってこちらには術がありませんでした。
その後自然災害大国日本では避難の制度が大きく改善されました。身近な例として(順不同)
1.避難所の整備とプライバシー保護、弱者対策、ペット対策など
2.支援物資・・・糖尿病や赤ちゃん用をはじめとした非常食の備蓄、生活用品の備蓄など
3.福祉避難所の開設や仮設住宅の質の向上
4.防災マップの整備など
5.災害訓練の実施など
例えればきりがありません。
これらは豪雨災害にも生かされていることは言うまでもありません。
災害大国日本は東日本大震災や阪神淡路大震災や2013年8月紀伊半島大水害(土砂ダム)などの経験を最大限生かされていると思っています。
自然災害は必ず発生します。その時に備え、準備しなくてはなりません。
最近もどこかで聞いたことがあるような気がしますが、順番は自助・共助・公助です。
国や自治体の支援は最後になります。阪神淡路大震災では約8割の人が共助により助けられました。
最後に、2010年10月31日に「地震体験車」を経験しました。東日本大震災の約半年前でした。
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