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3.11からもうすぐ3年 ~そのとき歌舞伎症候群患者は~ [その他]

東日本大震災からもうすぐ3年が経過します。
『釜石の奇跡』、『大川小学校の悲劇』などは語り継がれていますが、大震災の記憶が「風化」されつつあるのも事実です。

大震災が起きたとき、また、その後 歌舞伎症候群患者はどうでしたでしょうか。

私は2002年から2010年まで224回にわたって歌舞伎症候群に関することをメールマガジンで送信していました。
対象者は家族に歌舞伎症候群の患者がいる人で、ピーク時の送信先は20件以上でした。
送信をやめた理由は、2008年頃ファイル交換ソフト「ウィニー」によりメールアドレスなどの個人情報が流出したことによります。
それでもメールマガジンの受信を希望していた人には2010年まで発信していました。

大震災直後、主にアメリカから日本の歌舞伎症候群の方々の安否確認とお見舞いのメールをたくさんいただきました。
しかし、震災直後は混乱をきたし安否確認できる状況ではありませんでした。

最初にメールにて関東・東北地方の方々に安否メールを送信したのは被災地の落ち着きが見え始めた3月19日のことでした。
特に被災地(福島県、宮城県、岩手県)に住んでいる人(家族)は3件でした。
最初のうちは全く連絡が取れず、3日に1回ぐらいメールを送り続けました。
3件のうち最初に連絡が取れたのは3月30日のことでした。
そのメールには現地(被災者の生活、地理的状況など)のことが生々しくつづられていました。

残念ながら1人の方は同姓同名か分りませんが国際赤十字者のリストに掲載されていました。
もう1人については連絡がつかないままです。

個々の安否確認も重要ですが、特別支援学校(養護学校)や障害者施設の被災状況をマスコミは報道せず、近在の福祉施設から被災地の福祉施設の状況を確認してもらったのですが、全く連絡が取れず被災地の状況はわかりませんでした。

最近の報道では3.11を『記念日』にとの案があるようですが、目的や位置づけを明確にする必要があると思います。

参考 被災地;宮城県亘理町の様子(2012.11.12)  震災から1年8ヶ月経過後
①津波により家が流され、基礎のみが残っている。
②同所で稼働中のガレキ処理場
③津波に破壊された排水ポンプ場
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